京都市右京区の広隆寺で毎年秋に行われていた「牛祭」。鞍馬(左京区)の火祭、今宮神社(北区)のやすらい祭と並ぶ「京都三大奇祭」の一つだが、参列者の後継者不足などのため現在は中断している。
寺伝によると、起源は平安時代。五穀豊穣などを願った祭りとされるが、独特の衣装、牛にまたがる神、終わり方など、多くの不可思議な点に彩られており、まさに「奇祭」と呼ぶにふさわしい。
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日本書紀によると、広隆寺は推古11(603)年、豪族の秦河勝(はたのかわかつ)が、聖徳太子から仏像を譲り受けて建立。秦氏の氏寺として、当初は「秦公(はたのきみ)寺」「太秦(うずまさ)寺」などとも称した。
1400年以上の歴史をもつ広隆寺だが、日本から数千キロ離れた古代ユダヤのキリスト教との共通点を指摘する声が、以前から上がっていた。
代表的な共通点とされるのが、広隆寺の国宝・弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)。右手で作る形が、中国・敦煌で見つかった景教(ネストリウス派キリスト教)の牧師の絵のように、「三位一体」を表す三角形と同じであるという。
また、同寺に伝わる十善戒が、キリスト教の十戒に似ている点も、共通点の一つとされる。それゆえ牛祭も、実はキリスト教の影響を受けた祭事ではないかと指摘する声もある。
秦氏は、もともと朝鮮半島からの渡来系氏族だった。日本書紀には、応神天皇が治めた283年ごろ、中国・秦王の子孫を名乗る「弓月君(ゆずきのきみ)」が、人民を率いて来日し帰化したとある。
帰化後、秦氏は現在の京都市右京区や伏見区周辺、大阪などに土着。土木や養蚕、酒造、機織りなどの技術を発揮して隆盛し、朝廷には官僚として出仕した。
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「秦」という氏の由来は何だろうか。一般的な学説は、中国初の統一国家を樹立した「秦」(紀元前8世紀~紀元前206年)や、五胡十六国時代にチベット系の民族が建てた「前秦」(351~394年)などの国号に由来する説だ。
秦氏は朝鮮の百済、あるいは新羅から渡来したとされるが、そのうち新羅は「秦」の遺民が建てたとされる「辰韓(秦韓)」の後継国だった。
単に、秦氏は権威付けのために秦王の子孫を名乗っただけと考える研究者もいる。しかし、最もドラマチックな見方は欧州出身説だ。
166年、象牙など南海の産物を携えた一団が中国の後漢王朝に入貢した。彼らは中国のはるか西方にあったローマ帝国の使節で、「後漢書」の「西域伝」では、ローマ帝国を「大秦国」と呼んでいる。その史実に基づき、秦氏はローマ帝国から移り住んだ人々の子孫と考える説がある。
秦氏の先祖がローマ帝国出身であれば、彼らが古代ユダヤのキリスト教を信仰していたと考えるのも自然であり、子孫である秦氏にもその痕跡が伝わっていた可能性がある。
秦氏と牛祭の正体はいまだ多くの部分が明確でなく、謎に包まれた点が多い。もしかすると牛祭は、ユダヤの祭りが遠い距離と長い時間を超えて、形を変えながら日本に伝わった祭事なのかもしれない。真実は定かではないが、牛祭が遠く離れた地の名残を伝える祭りと考えれば、新たな魅力と歴史のロマンを見つけることもできるだろう。(石坂太一)
【牛祭】広隆寺で10月10日(古くは旧暦9月12日)に行われる例祭。寺伝によると、平安時代に恵心僧都が仏法を守護する摩●羅神を勧請して始め、かつて境内にあった秦氏をまつる大酒神社の祭礼ともされる。絵巻や絵図にも描かれ、安永9(1780)年の「都名所図会」では、摩●羅神は後ろ向きに牛にまたがっている。国家安寧、五穀豊穣などを願って約900年続いたが、明治10年に中断。同20年に富岡鉄斎らが復興したが、家ごとに配役が決まり、代わりがきかない行列役の不足などで、平成12年以降は中断している。(●=口へんに託のつくり)